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2008年 08月 16日

梅は咲いたか他

昭和49年10月発行日本教養全集全18巻の第10巻に収められている丸谷才一、開高健、小松左京の3作家のエッセー集である。

丸谷の「梅は咲いたか」、開高の「眼と皮膚の記憶」、小松左京の「未来への地図」。
解説によれば「おそるべき感度でとらえ、無類の饒舌で語る文明放談」というねらいでまとめられた三人集らしい。

まず、丸谷について。
エッセーで時代を超えた普遍性を感じさせるのは難しいし、話題が中途半端に古いので歴史的な興味もあまり湧かず、丸谷の博識と筆致には感心するものの、読んだ後すぐ内容を忘れてしまう結果となった。
また、後半は海外の推理小説の話題となり、ますますどうでもよくなってしまった。
丸谷の小説は幾つか読んで、その時代背景にかかわらずすごくいいと思ったものだが。

逆に、開高の「眼と皮膚の記憶」は、ベトナム戦争、ナイジェリア内戦、イスラエル戦争などにおいて従軍記者的な活動をした経験やそこから生まれた考えを文章にしたもので、知っていることを書くことと、体験したことを書くことでは、時を経て読んだとき、こんなに違うものかと、驚いた。

開高の小説もいくつか読んだけど、自分にはあまりピンとこないものばかりだった。
アイデアと文体が勝ちすぎていて、リアリティがなく、物語に引き込まれたくてもできないという印象だったような記憶がある。
丸谷の場合とまったく逆だ。

開高の最後の2編は釧路のイトウ、アラスカのサーモン釣りの話で、高校時代から「オーパ!」を月刊PLAYBOYで読んでいたわしの壺に入ったのも事実。
「キング・サーモン村のキング・サーモン・インに泊ってキング・サーモンを釣ること」を自転車こぎながら読んでいて、1匹のサーモンを釣り上げるところで泣いてしまった。
開高自身もあとがきで「”経験”には眼で心に入墨したのだとつぶやきたくなるようなものがある。」と書いている。

実は、まだ小松左京の「未来への地図」はさわりしか読んでない。
小松左京のSFは学生時代に読んだけど、小松左京が未来についてどう考えていたのかは非常に興味がある。
30数年時を経て何か結果が出ているかもしれないし、もっと先の未来について語ってくれるかもしれない。

全集の一巻に纏められた3つのエッセーであるが、読むにあたってかなり違う姿勢を強いられた(と言えば言い過ぎか?)。
その時代でどういうところに発表するかということは、当然、作家の意識にあったと思うけど、年数を経て、それがどのような読まれ方をするのかまで考えてエッセーを書くことはないのかもしれない。

いっぽう小説なら、世代を超えた普遍性を模索しながら書かれているのではないだろうか。

(後日追記)
小松左京「未来への地図」を読んで
丸谷才一のが文学的博学とすれば、小松左京のは科学的博学とでも言おうか。
豊富な話題の中で記憶に残った話題を幾つかメモしておく

「体験的情報論」のこころみ
善光寺の戒壇めぐり。非常によく考えられた演出。言葉でなく体験的に教理をわからせるしくみ。
「馬」よさらば
数億人のハンドルをにぎるドライバーを、道義的刑法的な「潜在的犯罪者」の立場に追い込みつつあるような現在の車のメカニズム自体が、根本的に批判されていい時期ではないでしょうか?(中略)自動車はやがて馬と同じようにトラックやサーキットの中に閉じ込められる運命にあるはずです。
さかさに地図をながめる
世界地図をさかさに眺めていて、あるがままに見ることができたとき、そこに展開する異様な地図。発想の転換。
ミクロンなみの小さな人間
直径1mの地球儀を作るとエベレストなら0.5ミリほどの凸凹
個性的に生きるには
喧嘩の生傷が絶えず、気に入らないと主人にでも噛みつきにくる、赤塚不二夫の「イラ公」なみに態度のでかい凶暴な雄猫。野菜しか食べない猫。ドアを尻尾で2回叩いて「ウオーイ」と人間のような声で呼ぶ猫。猫1匹1匹が個性的。人間はそれよりはるかに本来個性的な存在。現代の「個性的な生き方」というのは、むりをして「個性的になろうと」しないこと。
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by s_space_s | 2008-08-16 04:59 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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