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2018年 10月 11日

乗鞍岳土樋池踏査、大丹生池再訪(その2)

先日、乗鞍の土樋池と大丹生池を踏査して、下山後、いろいろな疑問が湧いてきました。
本当なら、図書館に行って文献にあたるとかすべきでしょうが、やはり、この山に精通した方にお聞きするほうが早いと思い、飛騨山岳会のお二人の長老、島田氏と木下氏にお尋ねしました。
以下、そのご回答です。

Q1:大丹生池の水はどこに流れているのか。

A1:乗鞍西面は、火砕流が流れたあとで全てが熔岩。そのため平地にある池は、水は貯まるが、ある時期に抜けてしまう。布引の滝の水は、熔岩の中の伏流水。(島田氏)

ということで、どこへ流れるとかではなく、岩盤にある穴?に吸い込まれているようです。
これは基本的には土樋池も同じだと思います。

Q2:土樋谷中流の炭焼窯跡があったが、針葉樹林帯で炭焼が行われていたのか。

A2:籏鉾には、平金鉱山という明治、大正時代に2千人を超える大鉱山があり、学校もある一大部落があった、鉱山の精錬所で使う炭を焼くため、丸黒尾根の反対側まで、炭焼きで木は全て切り尽くされた。鉱山周辺のいたる所に炭焼き窯があった。(島田氏)

鉱山で使う燃料のためなので、どんな樹種でもいいわけだ。
金平鉱山のお話しは青年の家にいたころに聞いていました。
昔登った恵比寿尾根も若い針葉樹が多かった。
鉱山があったころは、このあたりは「もののけ姫」のような感じだったのでしょうか。

Q3:土樋池の読み方

A3:読み方は、ツチトイイケです、古い地元の案内書には、(大正、昭和初め)ツチトイ(つちとひ)、ツチトヨ、など仮名を打ってあるものがありますが、今は地元では、ツチトイと言っています。(島田氏)

木下氏からは、地元の方の呼称として「つちどよいけ」をいただいた。

Q4:籏鉾の石碑にある行者「無盡秀全」の開拓した登山道はどこを通っていたのか。

A4:
島田氏からのご回答
昔の登山道は、
赤川新道、最後まで残った道、今は無い。
蛇出道、五色ヶ原から鶴が池へ登り着く。
池之俣大丹生道、大丹生池から桔梗ガ原。
私は、赤川新道は旗鉾の人の案内で登りました。

木下氏からのご回答
旗鉾にある石碑は、明治27年に乗鞍へ石碑を上げようとした修験者木食秀全のものです。
このとき通ったのが「蛇出道」。
貴兄が登られたルートには「池之俣大丹生池道」がありましたが、いづれも昭和のはじめに廃っていたようです。   

木下氏からは、飛騨の郷土史研究会の紀要に書かれた「乗鞍岳登拝路の盛衰」という地図付きの詳細な資料もお送りいただきました。
前記事に添付した地図の池之俣大丹生池道のラインはその資料を参考にしています。
旧道では、土樋池~大丹生池間は、わしらのラインではなく、大丹生池北の鞍部を乗越しているようです。

紀要文章を引用させていただきます。
⑨池之俣道
池之俣御越谷を遡り、途中から尾根を越えて土桶池、大丹生池を経て土俵ヶ原へ出る。江戸期に鉈削り(ナタバツリ)の円空が、大丹生池に木端仏千体を池底に沈めたという話が残っている。この時は金山道を経たようだ。土桶池、大丹生池へは古くから山麓の人々が雨乞いに集団登山しており、この時の道である。
大正七年(一九一八)八月には、丹生川村青年会と軍人会の約四〇〇名が蛇出道から登って室堂に泊まり、翌日大丹生池、土桶池を訪ね、この道を下っている。

氏によれば、既に廃道となっていたこの道のほかにも、昭和初期の最盛期で8本もの登山道があったということで、その歴史について興味深いお話が記述されていました。

以上、その道を極めた諸先輩の造詣の深さに頭がさがったという、後日談でした。




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by s_space_s | 2018-10-11 12:32 | 山登り | Comments(0)


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